8月, 2009 のアーカイブ

僕は普通の(普通の範囲は幅広いが)サラリーマン家庭に生まれた。
母は進行性の障害があった。
神経が侵され、いずれ寝たきりになる病気だ。

母の病気が発覚したのは、妊娠中だった。
発覚する数年前から、急に手足が痺れたり、何もない所で躓いて転んだり、入浴中に倒れたりしたが、医者も母の体を蝕む病の正体に気付かなかった。
正式な病名が付いた時、医者は中絶を勧めた。
母は命を賭けて僕を産む決意をした。

母は、手足が麻痺する、体温調節が出来なくなり意識を失う等、一過性の症状の再発を繰り返した。
並行して慢性的に体が動かなくなり、家事や育児がままならなくなった。

母と僕は、母の実家に身を寄せた。
祖母は優しく、嫌な顔一つせず母と僕の世話をしてくれた。
母に障害があっても、僕は幸せだった。
幸せな日々が、いつまでも続くと思っていた。

小3の時、祖母が硬膜下血腫で入院した。
祖父は典型的な企業戦士で、家事や育児は祖母任せだった。
仕事をしながら二人の病人を介護して、わんぱく盛りの子供を育てるのは困難だった。
僕は数週間、父や親戚の家に預けられた後、里親宅に委託された。

里親宅での暮らしは、悲惨だった。
6畳間に4人の里子が押し込まれ、満足に食べさせて貰えず、常に暴力と暴言に晒された。

里子同士の苛めも陰湿だった。
里親は、里子同士を相互監視させる事で、里子同士で友情を育むのを阻止し、互いに敵視するよう仕向けた。
里子間の「自治」を利用し、里子達の管理を容易にした。
虐げられる者同士が虐げ合う、異常な世界が、そこにあった。

里親の家は、生き地獄だった。
何度も死にたいと思った。
僕は何の為に生まれて来たのだろうと思った。

—-育てられないなら産むな!
—-「命を賭けて産む」なんて自己満足だ!

僕は密かに、母を責めた。
いずれ育てられなくなると充分予期できたはずなのに、僕を産んだ母を恨んだ。
親に育てられない子が舐めさせられる辛酸を知ってたら、軽い気持ちで「命を賭けて産む」なんて言えないはずだと憤った。

僕は生きる価値がないと思ってた。
生きる価値がないのに、親のエゴで生まれさせられたゴミ屑、何かの間違いでこの世に湧いて出てきたゴキブリ(叩き潰されて当然、死んでも誰も気に留めない命)だと思ってた。

でも、今は違う。

今は心から生きてて良かったと思える。
母に「生んでくれてありがとう、僕は幸せだ」と言える(恥ずかしいから口に出して言わないが、いつも胸の中で言ってるので嘘ではない)
里親の家が、如何に人を捻じ曲げる異常な場所であったか。あそこにいた頃の僕は如何に歪み、如何に心が荒んでいたか、今なら分かる。

今、僕は、福祉資源に支えられて、母と暮らしている。
母との暮らしを可能にしてくれた福祉資源と、福祉の現場で働く人々への感謝の気持ちとは別に、公的サポートだけでは、必要最低限のケアも受けられないシステムへの不満は募る。
独身者が働きながら自宅で障害者と生活を共にするには、自治体の有償ボランティアや見守りサービスを最大限に利用してもままならず、毎月かなりの自己負担金(幸い遺産があるので支払えるが、僕の収入では賄え切れない金額だ)が出る現状がある。

福祉政策の貧困さは、障害者福祉だけでなく、児童福祉の分野にも当て嵌まる。

日本では児童福祉の話になると、「被保護児童をどうするか?」という問題ばかりにスポットが当たる。
しかし、よく考えて欲しいのだ。
「被保護児童をどうするか?」の前に、「どうすれば被保護児童を減らせるか?」に、スポットを当てて欲しい。

親が病気や障害を抱える子、片親家庭の子、貧しい家庭の子、親の就業の為に必要な世話を受けられない子、虐待する親の子、親が「育てにくい」と感じる障害を抱える子、未婚の母の子・・・・

子供を家庭に留め置く為の、きめ細やかなサポートがあれば、被保護児童にならずに済んだ児童はたくさんいる。

親が病気や障害を抱えていても、適切なサポートがあれば(例えば、介護ヘルパーさんのような公的な「育児ヘルパー制度」があれば)その子供は家庭の中で育てられたかも知れない。

シングルマザーが安心して子育て出来るシステムがあれば、捨てられる子供は減るかも知れない。

子供を虐待する親に対しても、適切なサポートがあれば、親子を引き離さなければならない程、深刻な虐待に走らずに済む親がいるかも知れない。

被保護児童は障害を抱える割合が高いと言われるが、親が「育てにくい」と感じる障害を抱える子供なら尚更だ。適切なサポートがあれば、かなりの確率で、親が養育を放棄したり虐待に走るのを防止できるだろう。

今の日本では、適切なサポートがあれば被保護児童とならずに済んだ子が、福祉政策のお粗末さの為、親から引き離され、里親宅や施設に措置されているのだ。

里親を増やすのも結構。里親への支援金を増額するのも結構。
しかし、子供の幸福を第一に考えるなら、優先順位を間違えないで欲しい。
子供を里親や施設に預けるのは「最終手段」であるという認識と前提の下で、子供が家庭にいられるよう万策を尽くして欲しい。
里親を増やす前に、里親に預けられる子供を減らす事を、何よりも優先して真剣に取り組んで欲しい。
里親に支払う手当を増額する前に、その予算を、被保護児童を生み出さない(子供を本当の家庭に留め置く)為の福祉資源の拡充に注いで欲しい。

そして、どれだけ手を尽くしても親が家庭で育てられない子供には、その子の幸福を最優先にして欲しい。里親を増やす前に、悪質な里親を一人残らず「完全に」根絶やしにする「完璧な」システムを確立して欲しい。子供の幸福が100%保障されるシステム(「完全」で「完璧」なシステム)が機能するまでは、子供を里親に預けないで欲しい。

虐げられた子供は、世の中を恨み、自己の内に憎悪を育む。
幸福な子供は、周囲の人への感謝と愛情を育む。
憎悪と絶望に育まれて成長する子供が一人もいない社会になって欲しい。
すべての子供が「お母さん、生んでくれてありがとう、僕は幸せです」と言える世の中になって欲しい。

以上、選挙を目前にして、僕が思った事である。

S宅に委託される以前、私は何軒もの里親宅をたらいまわしにされたの。
短期間の滞在をふくめると、片手以上の里親宅を経験したことになるわね。

大人になってから知ったことだけど、
保護児童には児童相談所の担当者がつくことになってるらしいの。
里親宅に委託されてた間、私は自分に担当者がいたのか、
いたとしたらそれが誰なのか、ほとんど知らない。
名目上の担当者はいたとは思うけど会ったことすらない人が多いし、
わずかながら接点のあった人も、今となっては顔も思い出せない。
顔も名前もない何人もの大人たちの手によって、
私の意思や感情はそっちのけで、川面に落ちた木の葉のように
されるがままに、あっちからこっち、こっちからそっちへと、
あらがうすべもなく連れまわされた、という感覚しか残ってないの。

ひとつの場所に落ち着いて暮らすこと──それが当時の私の望みだったわ。
子どもは適応能力が高いといわれるけど、慣れない環境は緊張するし、
よく知らない大人たち──胸三寸で私をいいようにできる圧倒的強者たち、
気まぐれでワガママな支配者たち──に気をつかって遠慮して生活するのは、
心身ともにひどく消耗することなの。
大人の身勝手な都合で知らない土地に連れて行かれたり、転校したり、
追い出されたり、連れ戻されたり、そのたびに友達が変わったり、
あたらしい人間関係に神経をすりへらして消耗することが、
ほとほとイヤになってたの。

自らすすんで「里親の家に行きたい」と言ったことは一度もなかったわ。
形式的な「意思確認」はあるかも知れないけど、
それは「出来レース」以外のなにものでもないの。
まず大人たちの「思惑」ありきで、あとは子どもに「はい」と言わせるだけ。
ターゲットにされた子どもに残された道は、ふたつにひとつ。
ひとつは、さっさと「はい」と返事して、さっさと里親宅に行くこと。
もうひとつは、「意思確認」の名のもとに行われる終わりなき尋問──
──パワーゲームに疲れ果て、勝ち目はないと悟って「降参」すること。
いつだって私に選択肢はなかったの。

S宅に委託されたのは10歳の時だったけど、私は行きたくなかったわ。
上っ面をとりつくろってニコニコしても、意地の悪さが顔に滲み出てたし、
私はそれまでの経験から自分の「勘」を信じることに慣れてたの。
「勘」を裏切って現実が好転したことなんて一度としてなかったから。

なにより、それまで里親たちには散々な目に遭わされてきて、
彼らのワガママと身勝手さには心底ウンザリしてたの。
その気持ちを正直に話したら、「よくあること」「相性が悪かっただけ」
「お互いに不幸な出来事だった」で片付けられて、軽く流されたわ。

それまでは「血は繋がらなくても私たちは家族」とかうそぶいてたクセに
実子ができた途端、手のひらを返したように態度が豹変、
里子と実子に差をつけて里子を冷遇→お払い箱にしたり、
オス里親が女子児童の裸体に異常な興味を示したり写真撮影をしたり、
それに気付いたメス里親が児童を「泥棒猫」「家庭崩壊者」呼ばわりしたり、
くる日もくる日も納豆ごはんを食べさせて里子を低栄養状態にするのは
「よくあること」なのね。
里親家庭ってホント恐ろしいところなのね。

今回は児童相談所の中の人について思うことや、制度の脆弱さを絡めて
書くつもりでいたけど、長くなりそうなので、この続きは次回ね。

爪と肉の間を目打ちで刺される事は、
それまでの短い人生経験の中で、最も酷い肉体的苦痛でした。

私は泣き声を出さないよう気を付けて、すすり泣きながら、
里親に何度も謝りましたが、許して貰えませんでした。
両方の足の親指に、同じ事をされました。

洗面所の床に、血液が落ちていました。
里親は、雑巾で拭き取るよう言い付けました。

足の親指の傷から出血していたので、
雑巾で拭き取る側から、床に血液が付着しました。
里親は、私に汚い雑巾を投げ付けて、
床が汚れる、傷口を押さえてろと言いました。

その後、台所の入口の前の廊下に、正座させられました。
季節は5月か6月だったと、記憶しています。
お風呂上がりでしたので、私は一糸纏わぬ姿でした。
髪の毛から冷えた水が滴り、背中や肩に流れました。

正座をしている所為で、脚は痺れても、
目打ちで傷つけられた患部は熱をもち、ズキズキ疼いていました。
里親は、夕食の支度で台所にいたので、
脚を崩したり姿勢を変えるのは、不可能でした。

里親は、私を放っておいてくれませんでした。
思い出したように私の前に立っては、罵声を浴びせ、
小突く、蹴飛ばす、太腿を踏み付ける等、罰を加えました。

夜になり、男里親が帰って来ました。
私が全裸で廊下に正座している事に気付いても、
嫌な物を見るような目で、チラリと見ただけでした。

里親達の食事が終わり、後片付けを言い付けられました。
正座から解放される安堵から、喜んで従いました。

後片付けが終わると、また同じ場所に正座させられました。
テレビの音や、里親達の会話が、くぐもって聞こえて来ました。

里親が、食べ物や飲み物を取りに台所に入って来ると、
私は緊張し、姿勢を正しました。
そんな私を見て、何もしないで去って行く事もあれば、
嘲笑ったり小突いたり蹴飛ばして行く事もありました。

やがて、照明が消され、家の中が暗くなりました。
里親達が寝室に入ったのは、気配で判りました。

私は足の痛みの他に、空腹と寒気に襲われていました。
寒さで震えが止まりませんでした。

いつの間にか、居眠りしていました。
怒鳴り声で、目を覚ましました。
目の前に里親が立っていました。

「部屋に戻れ」

私は痛む足を引き摺って、部屋に戻りました。
深夜0時を過ぎていました。

その週は、学校が終わってから夜中まで、正座させられました。
正座から解放されるのは、家事をする時だけでした。

しかし、私が堪えたのは、正座をさせられる事ではありませんでした。
食事を抜かれる事が、最も耐え難い罰でした。
週明けまで、一切食べ物を貰えませんでした。

学校給食が命綱でした。

ネット上にサイトやブログは星の数ほどあるのに、
里子経験者が発信してるものって、ほんとうに少ない。
「里親に委託された経験を持つ者」自体がマイノリティーとはいえ、
こんなに少ない、というか、ほとんどない現実を目の当たりにすると、
里子たちが歩む人生がいかに厳しく、いかに困難に満ちたものであるかを、
目の前に突きつけられる気がするの。

「保護児童」として成長し、措置終了と同時に、ひとりで社会に出て行った人々。
彼らの5年後、10年後の生存率はどれくらいか考えさせられてしまうの。
たとえ生物学的には存命しているとしても、
サバイバルの末、力尽きて閉鎖病棟や刑務所に漂着した人、
ホームレスやネットカフェ難民に身を落とした人、
裏社会の法の光の届かない治外法権の谷間に隔絶された人──
社会的に抹消された元里子たちはどれくらいになるのかしら、と。

幸いなことに私は「今のところ」まだ生き抜けているけど、
長い人生この先どうなるかわかったものじゃない。
勤めてる会社が倒産したらどうなってしまうのかしら。
病気になって長期入院、仕事を失ったらどうなるのかしら。
「帰る家」と「頼れる親」がある人はしあわせね。
でも、帰る家もなければ親もいない、後ろ盾がなにもない人は、
いちど足を踏み外したら最後、転落するだけなの。
そこから這い上がるのはすごく難しいことなの。
再就職するにしても身許保証人がいない、
家賃を払えずにアパートを追い出されたら住民票を失う、
履歴書に書ける住所がなければマトモな会社は雇ってくれない。
一度はまったら抜け出せない蟻地獄が待ってるの。

そんなことを考えながら元里子たちの消息を捜してネットを徘徊してたら
下のページを見つけたの。

「私は『幸せ!』 だから出来る 里子から里親に」
http://narasatooya.jp/column11.html

奈良県里親会とかいうサイトに掲載されてるコラムで、
これを書かれたNさんは良質な里親さんに当たって里子から養子になり、
結婚後も里親(養親)さんと同居しておられるとのこと。
しあわせそうな里親美談を微笑ましく読んでいたんだけど、
「里親さんに望むこと」という部分で、なんか突き落とされた気分になったわ。

ここ半年の間に、里子が2人、Nさんを訪ねてきた。
2人とも養子縁組で育てられたけど、学校を辞めるなど
里親の意向に反することをしたため離縁され、
着のみ着のまま家を追い出された。
2人ともまだハタチを過ぎたばかりの若い子で
アパートを借りるにも保証人がなく、途方に暮れている。

・・・という内容で、これ自体、ド鬱になれるエピソードだけど、
この中でNさんは「私のようにこの歳になっても
愛情いっぱい育てられている里子達はほんの一握りだと思います」と書いてるの。

そ、そうなのね・・・
愛情いっぱい育てられた元里子さんも、そう思ってるのね・・・orz

北海道から沖縄まで日本全国に里子は約3千人しかいないのに、
限定された狭い地域の、Nさん個人の知り合いという範囲の中で、
たった半年のあいだに、このようなケースが2件もあった、ということは、
日本中でこんな目に遭う里子はかなりの確率になると思うの。
この里親たちに実子がいるのかどうかは不明だけど、
もし血の繋がった実子だとしたら、親の望んだとおりにならないからといって
生活基盤のない子を路上に放り出して、あとは知らん顔するのかしら?

いままで私、養子縁組に対して幻想を抱いてたけど、
たとえ養子になっても里子は里子、家族にはなれないのね・・・
里親の望むとおりに振る舞って「良い子」にしてないと
着のみ着のまま追い出されても文句はいえない身分なのね・・・と、
里子の立場の弱さをあらためて思い知らされ、暗澹としてしまったわ。

離縁され、着のみ着のまま追い出されてしまった元里子(元養子?)さんたちが、
この世のどこかでたくましく生き抜いておられることを願ってやみません。

里父

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里親の家で過ごした、子供時代の数少ない、比較的楽しい思い出は、里父と一緒の風景、だった。

セーリングや、釣りや、キャンプや、交通博物館に、連れて行ってくれたのは、彼だ。

休みの日、電車を見に行って、帰りにファミレスや、モスバーガーに連れて行って貰うのは、辛い日々の中の数少ない、楽しみの一つだった。

僕の手記を読んだ人は、里母は悪人、里父は善人と言うイメージを持ってると、思う。

確かに、里父が居ると、里母は、僕をあまり、虐めなかった。

でも、僕が、里父を好きかと聞かれれば、ノーだ。
里母に接する時と同じように、常に、警戒しながら接してた。
里父が一緒に居る時は好きだったが、何故か、彼を慕う気持ちはあまり、なかった。

時は下って、里親宅を出た後。
僕は、慣れない環境に緊張し、仕事に精一杯で、真面目に、慎ましく生きてた。

いつもギリギリだった。
毎朝職場に体を運び、仕事をするだけで、エネルギーを使い果たしていた。
余暇を楽しんだり、羽目を外したり、遊ぶ余裕は、なかった。
真面目に生きるしか、なかった。

児童虐待の、悪影響、後遺症が出揃うのは、大人になってから。と言われる。

その言葉を、身を以て、体現した。

里親の家を出れば、全て解決する、と思ってた。
嫌な事は、全て里親の家に置いて出て、後は、自己責任の下、自分の力で、人生を切り拓けば良い、と思ってた。

そうは問屋が卸さなかった。

人が怖くて、仕方無かった。
殴られるのではないか、嘲笑されるのではないか、傷つけられるのではないか、と言う恐怖と切り離して、考えれらなかった。

その考えは、理不尽であると判ってて、自分に何度となく言い聞かせたが、込み上がる恐怖感は、止まらない。

普通の人は、あまり気にならない事も、僕には、恐怖との闘いだった。
人と同じ空間に居る事、昼食を一緒にする事、当たり障りない世間話をする事も、臨戦体制の心構えでなければ、対処出来なかった。

僕は、薬の力に、頼った。
中学の時、抑うつ、不安障害と診断され、薬を飲んでたが、処方される分量じゃ足りなくなり、かかりつけ医の他の精神科や、心療内科に掛かったり、処方箋無しで買える薬を大量に、飲んでた。

疲れてるのに、緊張で目が冴えて、眠れなかった。
眠剤を飲んでも眠れず、3日間寝ないで仕事に行った事も、あった。

しかし、休日は、何もしないで、寝てばかりいた。
金曜の夜に寝て、日曜日の朝方まで、三十時間以上、失禁しても気付かず、眠り続けた事もあった。

アパートに一人で居る時、不安、恐怖、苛立ち、怒りが、ごちゃ混ぜになった、自分でも説明出来ない激しい衝動に駆られて、自傷したり、過呼吸になったり、人に言えないような事をしたり、した。

僕は、常に臨戦体制で、過剰に緊張し、神経を張り詰め、時折馬鹿な事をしながら、薬に助けられて、なんとか生きてた。

そんなある日、突然、思い出したくない事を、思い出した。
すっかり忘れてた過去の記憶が、生々しく蘇った。
一つ蘇ると、一連の記憶が、芋蔓式に次々、蘇った。

僕は、里父の、慰み者だった。
里父は、何年間も、僕をオモチャにしてたのだ。

当ブログは、養育里親(養育家庭)に委託された経験のある
4人の元・要保護児童(里子)たちが執筆・投稿しています。

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私達は、世間一般の方に、1人でも多く、
里親制度の実態を知って戴きたいと思っております。
当ブログへのリンク、紹介は、歓迎します。

先生が帰ると、里親は私を折檻しました。
私が先生に告げ口をしていると思っていたようです。

靴を脱いで、上り框に上がると、突然背中を蹴られ、転倒しました。
里親は私の髪の毛を掴み、廊下の奥に引き摺って行きました。
「立て」と言われて立ち上がると、腹部を蹴られました。
その弾みで転倒し、階段の角に強く背中を打ち付けました。

私は起き上がれず、呻いていました。
里親は、私を何度も蹴飛ばし、踏み付けました。
その間、N先生を「あの女」と言い、汚い言葉で罵っていました。

やがて、気が済んだのか、
「風呂を入れて洗濯物を片付けろ」と言い捨て、去って行きました。

私は、暫く立ち上がれませんでした。
蹴られた所為で胃腸が踊り上がり、吐き気と苦痛が治まりませんでした。
打ったり蹴られた部分が、ずきずきしていました。

しかし、里親が戻って来て、また折檻される恐怖から、
苦痛を堪えて立ち上がりました。

浴室を掃除して、浴槽に湯を張り、洗濯物を取り込み、畳んで片付けました。
里親の怒りがまだ治まっていないのは、気配で判りました。

私は彼女を刺激しないよう、普段より慎重に行動しました。
足音を立てないよう、気を付けて歩き、
物音を立てないよう、静かに家事を片付けました。

終わりましたと報告すると、風呂に入れと言われました。
私の入浴は日曜と決まっており、今日は日曜ではありませんでした。
おかしいと思いましたが、里親を刺激したくなかったので、
何も言い返さず、大人しく入浴しました。

お風呂から上がって、バスタオルで体を拭いていると、里親が来ました。

「そこに座りなさい」

私は裸のまま、脱衣所の床に正座しました。
里親が、目打ちを持っている事に気付いて、
何をするつもりだろうと思って見ていました。

「足を出して」と言われ、片方の足を差し出しました。
里親は、私の足を掴みました。

「いいか、声を上げるんじゃないよ」
「大声を上げても、“あの女”は助けに来てくれないよ、
あんたがもっと痛い目に遭うだけだ」

里親は、足の親指の爪と皮膚の間を、目打ちの先で刺しました。
激しい痛みの為、私は反射的に足を逃がそうとしましたが、
里親は「大人しくしろ!」と怒鳴りました。

「大人しくしてれば、親指だけで勘弁してやる」
「暴れたら全部の指にやるよ」

里親は、爪の下に刺した目打ちを、少しずつ深くして行きました。
私はバスタオルを抱き抱え、顔を埋めて、激痛に耐えていました。

「うちが嫌なら出て行け、“あの女”に養って貰え」
「養って貰ってる分際で、うちのやり方に文句があるのか?」

私は泣きながら、
ごめんなさい、もう二度としません、許して下さいと謝りました。

謝罪しなければならない様な事は、何もしていませんでした。