9月, 2009 のアーカイブ

私がS宅にいるあいだ、2人の里子が脱走をはかったの。
うちひとりは高校生だったマリちゃん。
残された私はただただ驚くばかりだったけど、今になってみると、
彼女は逃げ出す前から緻密な計画をたてて実行したと思うの。

マリちゃんはいつものように学校に行って、二度と帰ってこなかった。
あまりお金をもってない高校生、しかもうら若い女子高生が
学校に行ったきり連絡もしないで深夜になっても帰宅しなければ
普通の親なら心配で食事も喉をとおらず夜も眠れないと思うけど、
そこはあくまで里子と里親、しょせんは赤の他人ね。
里親は烈火のごとく怒り狂ったけど、そこにあるのは「怒り」だけ。
マリちゃんの身を案ずる様子はなかったわ。これっぽっちも。

かくいう私もマリちゃんのことを心配してたといえばウソになるわ。
正直、私は彼女に腹を立ててたの。
S夫妻は地獄のように不機嫌で里子たちに当たり散らすし、
私たちは里親の顔色をうかがってビクビクしながら暮らしてたの。
マリちゃんが脱走してしばらくは里親の不機嫌に当てられないよう、
そればかりに神経を張り巡らせて気が休まるヒマがなかったわ。
マリちゃんのせいで罪のない私たちがヒドイ目に遭ってると思ったし、
ひとり抜け駆けした彼女を「ずるい」と思う気持ちもあったしね。

ある日のこと。
放課後、学校から里親宅に向かう道すがらマリちゃんに会ったの。
とつぜん誰かが横から出てきて腕を引っ張られ、
ビックリして犯人の顔を見るとマリちゃんで、さらにビックリしたわ。

「マリちゃん!」
私は思わず声を上げたわ。
彼女は別人のようにキレイになってたの。
里親の家にいた当時はダサいボブだった髪の毛は栗色に染められ、
顔はきれいにお化粧をほどこしてオトナっぽく見えたわ。

「シーッ、大声だすんじゃないよ」
彼女は声をひそめ、じろりと私を見据えた。
「グラジオラスちゃんにお願いがあるんよ」
「お願い?」
「あんたに持ってきてもらいたいものがあるの」
私は思わずマリちゃんをジロリと凝視したわ。
だって彼女のせいでS夫妻の機嫌は最悪で、
ヒドイ目にあわされてる真っ最中だったから。

「ごめん、あんたにイヤな目に遭わせちゃったね」
私の気持ちを悟ってか、マリちゃんは申し訳なさそうな顔をしたわ。
「タダとは言わんよ、お小遣いあげるからさ」
彼女は財布から1000円札を2枚ぬきだし、私の手に押し込めた。
「持ってきてくれたら、5000円あげるよ」
「なにを持ってきてほしいの?」
「私のマグカップ」
「マグカップ?」
「うん、私が使ってたマリーのマグカップあるでしょ。あれ、私のなのよ。
盗んでこいと頼んでるワケじゃない、私のものを取り返す手伝いをしてほしいの。
ね、グラジオラスちゃん、一生のお願い」
マリちゃんは真剣だった。
あとで会う約束をして、私はマリちゃんと別れたわ。

そのとき、私は里親に密告して自分のスコアを稼ぐこともできたし
マリちゃんに腹いせすることもできたけど、そうしなかったの。
もちろん「お小遣い」につられたせいもあるけど、
彼女は私に意地悪しなかったし、世話になった恩がないわけでもなかったし、
なにより彼女のなんだか必死な様子に心を動かされてしまったのね。
私はこっそりマグカップを持ちだしてマリちゃんに手渡したわ。

「グラジオラスちゃん、ありがとね、あんたも元気でやるんよ」
そう言い残して、彼女は足早に去っていったわ。
私がマリちゃんを見た最後の姿だったの。

あのカップのどこに7000円の価値があるのか私にはわからないわ。
それほど高価なものには見えないし、新品を買うほうが安く上がりそうだけど、
彼女にとっては7000円を払ってでも「取り戻す」価値があったの。
その理由はマリちゃんにしかわからないし、当時は気にもかけなかったけど、
最近になって、その理由を知りたいと思うようになったの。
今となっては彼女に会うすべもなく、どこにいるのかもわからないけど・・・

里子の尻噛んだ罪、小学教諭起訴 虐待相談増加の一途

 育てていた里子にけがを負わせたとして、宮崎地検は14日、宮崎市青島西2丁目、小学校教諭安波圭容疑者(38)を傷害罪で宮崎地裁に起訴した。安波被告は「日頃から子供の態度にいらだっていた」などと起訴事実を認めているという。地検は継続的な虐待があったとみている。

 起訴状によると、安波容疑者は4月1日ごろ、自宅で寝ていた里子の男児(6)の尻に2回かみついて約1カ月のけがを負わせ、同26日には移動中の車内で男児の太ももを指でつかんだりつねったりして約1週間のけがを負わせたとされる。

 地検によると、男児は昨年8月から里子として養育されていたが、継続的な暴行を少なくとも今春から受けていたという。地検は、里親(母親)としての心理的な圧力や仕事のストレスなどから、安波被告のしつけがエスカレートしていったとみている。

    ◇

 里子として迎えられた教員の家庭で起きた悲劇。県内でも子供が犠牲になる虐待事件は後を絶たない。

 県こども家庭課によると、県内の昨年度の虐待に関する相談件数は287件。07年度の195件、06年度の220件と比べて増加。逮捕に至った重大事案は今年5件(8月末現在)で、昨年1年間の4件をすでに超えている。

 県警少年課の黒木寛史理事官は「虐待は親の立場では、しつけの一環。線引きが難しく、家庭内なので表面化もしにくい」と指摘。今回の事件は児童相談所(児相)からの通報がきっかけで、「子供や赤ちゃんは被害をうまく表現できない。学校や医療機関、児相などが協力し合い、小さなケースから対応していくことが重要だ」と話した。

 児相関係者によると、男児は県警への通報後に児相に一時保護され、現在は児童養護施設で暮らしている。一時保護された段階では無表情で落ち込んでいたが、職員が「お母さんのところに帰らなくてもいいんだよ」と声をかけると、笑顔を取り戻したという。(平塚学)

http://www.asahi.com/national/update/0914/SEB200909140007.html

ナイフを抜くと、傷口から、血が出た。
痛みは、感じなかった。

里母は、間抜け面で、固まってた。

「お父さんに話せばいいじゃん」

僕は、言った。
彼女の間抜け面が、痛快だった。

「お父さんに電話しないの?」

彼女は、突っ立って、無反応だった。
僕は、居間に、向かった。

血がだらだら流れたが、気にならなかった。
彼女のケータイを取って、突き付けた。

「ほら、お父さんに電話しろよ」

彼女は、泣き出した。

僕は、勝ったような気分に、なった。
爽快な気分で、台所を出て、部屋に向かった。

傷は、痛くなかったが、思ったより深く切れて、かなり血が出てた。
タオルで押さえたら、すぐ血を吸って真っ赤に、なった。

死んでしまうかも知れないと、思ったが、恐怖は、無かった。
ぼんやりと、陶酔感に包まれて、死んでもいいと、思った。

自殺する気は、これっぽっちも、無かった。
ただ、流れる血を見ながら、漠然と、このまま死んでもいい、死んでしまっても構わないと、思った。

階段を上がる、足音が、聞こえた。
ドアが開いて、里母が、入って来た。

彼女は、「病院に行きましょう」と、言った。

僕は、「嫌だ」と、言った。

彼女は、ヒステリーになって、ギャーギャー喚いた。
僕は、意識を離して、聞き流した。

少しぼんやりしてたが、僕は、冷静だった。
彼女が、取り乱して、喚く姿を、小気味良い思いで、見てた。

彼女は、僕を、揺さぶった。

「私にどうして欲しいの?」と、喚いてた。

僕は、「大声を出さないで欲しい」と、答えた。

「分かった」彼女は、声を落とした。「大声を出さないから、一緒に病院に行って」

「嫌だ」

「どうして?」

「行きたくないから」

彼女は、諦めて、出て行った。

暫くして、救急車が、来た。
救急隊員に、「痛くない、歩ける」と、言ったが、担架みたいな物に、寝かされて、運ばれた。

家の前に、消防車が、止まってた。
何故、消防車がいるのか、聞いたが、無視された。

救急車の中で、里母は、僕が、自分でやったと、説明した。
僕は、救急隊員の前でも、医者の前でも、自分でやったと、言った。

自傷の初期は、太腿を拳で叩いたり、爪を立てたり、掴んだり、引っ掻いたり、した。
やがて、鋏とか刃物を使うように、なった。

血を拭いたタオルは、ベッドの下に隠した。
衣類や布団に、血を付けてしまう事も、あった。

翌日、帰宅すると、ベッドの下の、血の付いたタオルや下着は無くなって、シーツや布団カバーは洗濯した物に、替わってた。

里母は、何も言わなかった。
僕と彼女は、不可侵条約の下、平和的な関係を築いてた。

平和的関係の合意は、対等じゃなかった。
強国が、弱小国に押し付ける、不平等条約だったが、僕は、その合意に、甘んじた。

里親に依存しなければ、僕は、生きて行けなかったから。

僕は、衣食住の提供が必要だったが、彼らは、一方的に打ち切る権利を、持ってた。
僕の生殺与奪も、彼らの思うがまま、だった。

里親に委託された初期の頃、僕は、自分の立場を、嫌と言う程、思い知らされた。

彼らは、気分で、僕を餓えさせる事も、寒さに震え上がらす事も、鞭打つ事も、出来た。
言葉通りの意味で、鞭打たれた事はないが、それに等しい苦痛は何度も、味わった。

僕は、得体の知れない中年夫婦のペット、として、平和的に生きる道を、選んだ。
彼らの、飼い主としての権利を認め、その支配を受け入れる事で、当座の身の安全は確保、出来た。

僕が従順な犬でいれば、全てが平和的に、収まった。

ある日、学校から帰ると、僕の部屋から、刃物が、消えていた。
鉛筆立てに立ててたカッターから、机の中にしまってた彫刻刀まで、刃物類が全て、持ち出され、隠された。

里母の仕業だと悟ったが、僕は、何も言わなかった。
何も言わなかったが、怒りが込み上げた。

僕は、スクールバッグから、鋏を取り出して、自傷した。
怒りは強く、派手に切って、派手に血を出した。

翌日、台所で菓子パンを食べてると、里母がやって来た。

「今日、あなたのシーツを洗濯したの。落とすのが大変なのよ、あれ。。」

彼女は、僕の方を見ないで、堅苦しい口調で、言った。
シーツに血が付いてたと言わなかったが、言わんとする事は、分かった。

「お父さんに話すわ。分かったわね?」

彼女が言うのを、僕は、呆然と聞いたが、じわじわと怒りが、込み上げた。

里父は、僕が自傷してる事は、知ってる。
知ってて、見て見ぬ振りを、してる。

しかし、彼女が里父に話せば、彼は、彼女の手前、アクションを起こすだろう。
里父の性格的に、やると決めたら、強引な手段を厭わない。
僕の平和は、掻き乱されるだろう。

そんなのフェアじゃないと、思った。

僕の行いは、異常かも、知れない。
でも、僕が異常なら、彼女も異常だ。

預かった里子を、突き落とし、頭に怪我を負わせた。
足をアイロンで、焼いた。
意識が遠くなるまで、風呂に、沈めた。

当時、僕はまだ、とても幼い、子供だった。
彼女が、無力な幼児に行った仕打ちを、異常と言わず、何と言うのか。

でも、僕は、彼女の異常さを取り沙汰し、責める事は、しなかった。
忘れた振りして、彼女に、気まずい思いをさせない、礼節を、持ってた。

それなのに、彼女は、裏切った。
不可侵条約を、一方的に反故にして、僕に侵略した。

僕は、手近にあった果物ナイフを、掴んだ。
シャツを捲り、腹に突き刺した。

私は学校で仲間外れにされ、孤立していましたが、
それでも学校は好きでした。

学校は、里親の家より安心して過ごせる場所でした。
孤立している事は、あまり苦になりませんでした。
同級生の意地悪な目線に晒され、悪口を言われるより、
一人で好きな事をして過ごす方が、気楽でした。

休み時間は、植物や動物を観察したり、本を読んだり、
ピアノやオルガンを弾いて過ごしていました。
同級生に鼻白まれ、親しい友達はいませんでしたが、
私なりに、学校生活を楽しんでいました。

夏休みは、憂鬱でした。
里親は、私が中耳炎を患っていると虚偽の説明をして、
学校のプールに行かせてくれませんでした。
地域のお祭りや花火大会にも、行かせてくれませんでした。

一日中、掃除と草むしりをさせられていた気がします。

炎天下、何時間も庭に出され、雑草を一本残らず抜いても、
里親の許しが出るまで、家に入るのを許されませんでした。

家中をピカピカに磨き上げ、塵一つ手垢一つ残っていなくても、
里親の許可なく掃除の手を休める事は、許されませんでした。
私は何も考えず、雑巾で床を擦り、窓を拭きながら、
時が過ぎるのを、ただ待つしかありませんでした。

殴る、蹴る、壁にぶつける等の折檻は、日常的に行われました。
私の身体から、腫脹や皮下出血がなくなる事は、ありませんでした。

背中や臀部、太股に、お灸を据えられた事もありました。
その時に出来た熱傷の痕が、今でも白っぽく残っています。

食事は、1日1回か2回でした。
お腹いっぱい食べられる事は、ほとんどありませんでした。
幸か不幸か、食後の後片付けは私の仕事でしたので、
里親の目を盗んで残飯を漁り、飢えを凌いでいました。

里親から虐待を受けている事を、学校の先生に打ち明けるなんて、
当時の私には、思いもよらない事でした。

虐待が、長期間に渡って日常的に繰り返されると、
子供は自分を責め、罪悪感、無力感、諦めを学習します。
虐待を受けている自分を恥ずかしく思い、
その事実をひた隠そうとします。

私は被害者でありながら、加害者の「共謀者」になって、
虐待の隠匿に協力する役割を担っていました。

里親に折檻されて、顔や腕等の外から見える部分を負傷しても、
学校の先生に怪我をした理由を尋ねられると、
転んだ、ぶつけた、物が落ちてきた等、
無難に思える返事をしていました。

そのうち、ただ「転んだ」「ぶつけた」と答えるだけでなく、
「お母さんに何度もやめなさいって言われたのに、
廊下で滑って遊んでたら、転んで縁側から落ちた」等、
尾鰭背鰭を付けて、もっともらしい説明をする知恵が付き、
その場しのぎの嘘、言い訳を重ねるようになりました。

夏休みの前、N先生がまたB宅を訪れました。

私は階段の上に立って、聞き耳を立てていました。
先生が帰った後、里親に何をされるか考えて、
不安でいっぱいでした。

先生を見送り、家に入ると、里親は私を折檻しました。
平手で張り倒され、殴られ、蹴られ、壁にぶつけられました。
その晩は食事を抜かれ、深夜まで正座させられました。
正座から解放されるのは、家事をする時だけでした。

翌日は1学期の最後の日でした。
学校が終わって家に帰ると、里親は言いました。

「あんたの昼ご飯はないよ」
「あんたに食べさせる物は何もない」

前の晩から何も食べていなかったので、
お腹が空いて、体に力が入りませんでした。
里親がテレビを見ながらラーメンを啜る物音を、
廊下に正座をして、じっと聞いていました。

里親の食事が終わると、後片付けを言い付けられました。

私は食器を台所に下げると、里親の目を盗んで、
残ったスープを啜り、丼の底に沈んだカスを食べました。

それから里親は、家事を片付ける私の手が遅い、手を抜いた等、
言い掛かりを付けては、私に体罰を加えました。
些細な事で、痣になるほど殴られ、蹴られました。
うずくまる背中や頭部を、縄跳びで打たれました。
縄跳びで打たれると、痛くて声も出ませんでした。
私は何度も謝りましたが、許してくれませんでした。

明日から夏休みなので、里親は手加減をしませんでした。

「“あの女”に告げ口できなくて残念だねえ」
「この恩知らずのガキを、どう懲らしめてやろうか」

私を折檻しながら、里親は笑っていました。

里親が、N先生の訪問にまだ腹を立てている事、
私が先生に告げ口をしていると疑って、許していない事を悟りましたが、
どうする事も出来ませんでした。

中学の時の記憶は混乱してるが、僕は、あまり問題ない生徒だったと、思う。

僕は、内向的で、臆病で、慎重な、性格だった。
学校では真面目な、グループに属してた。

時折、過呼吸や不安発作を起こして、騒ぎになったが、それを除けば、大人しくて問題にもならない生徒、だった。

里母とは、表面上は、礼儀正しい関係に落ち着いた。
小さかった頃、彼女は散々、僕を虐めてくれたが、その事を、僕がすっかり忘れたと、思ってるようだった。

僕が、ある程度成長すると、露骨な虐めや、意地悪をされる事は、なくなった。

厭味を言われたり、態度や表情の端々に、意地の悪い感情がチラつく事はあったが、いつの間に、お互い、無言の内に、揉め事は避けて、平和的に暮らそうと同意が、出来上がってた。

既に、僕は、揉め事を避ける振る舞いを、身に付けてた。
過去は忘れた振りして、礼節を持って、淡々と付き合った。

学校でも、里親の家でも、僕は、真面目に、大人しく、静かに、生きてた。

でも、時折、激しい衝動に駆られた。
自分でも理解出来ない、感情だから、言葉で説明するのは、難しい。
苛立ちと、怒り、不安、恐怖、色んな感情が、火の玉になって、腹の中で暴れ回り、突き上げるようだった。

僕は、太腿を掴んだり、引っ掻いて、衝動に耐えた。
発作的に、彫刻刃や鋏で刺したり、切ったり、した。
そうすると、不思議と、気持ちが落ち着く事に、気付いた。

僕は、病み付きに、なった。

過食嘔吐も、同じだった。
やると、気持ちが、落ち着いた。

自殺する気はなかったし、あてつける気も、なかった。
気持ちを落ち着かせたいから、やった。

良くない事と言う自覚は、あった。
いつも、罪悪感が、あった。

でも、気持ちを落ち着かせないと、激しい感情に突き上げられて、どうかなってしまいそうだった。